ハンガリーは、戦後ヨシフ・スターリンに忠実だったラーコシ・マーチャーシュが全権を握っていたが、経済政策の失敗から生活水準は低いままに置かれていた。労働者の不満は、工場の自主管理と労働組合の結成の自由の要求という形となり、それはサッカー場での暴動という形で現れていた。また、農民たちも政府の強制的な集団化から悲惨な状況にあり、農地の私有と耕作の自由を要求していた。
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ジャーナリストや文筆家からも労働環境の改善や言論の自由が要求され、学生も大学の狭き門と学ぶ環境を改善しようとして当局から独立した学生の組織を設立していた。国民全体から不平不満が巻き起こる中、独裁政党であったハンガリー勤労者党内でもラーコシらスターリン主義者を批判する改革派が台頭。そこへソヴィエト共産党内部で行われたニキータ・フルシチョフのスターリン批判演説が、幹部たちに大きな議論を呼び起こした。
1956年7月18日、ソ連の圧力によりラーコシは党書記長の辞任に追い込まれた。しかしその後任には、スターリン主義者のゲレー・エルネーが選出された。これに反発した市民は、集会禁止令にもかかわらず、ブダペストで大規模なデモを行なった。ソ連指導部は急遽、党幹部会のアナスタス・ミコヤンとミハイル・スースロフの派遣を決定したが、事態を収拾する間もなく、蜂起が勃発する事態に至った。
ミコヤンとスースロフがハンガリーに出かけている間に、ソ連指導部はハンガリーに対する出兵を決定する。ハンガリーから戻って真相を知ったミコヤンは、フルシチョフの自宅に押しかけて、自らの自殺をほのめかして派兵の撤回を求めたが、フルシチョフはこれを拒否した