故事(こじ)とは、中国の古典を起源として、昔から伝えられてきた教訓話やいわれのことをいう。
故事をもとにした漢字数文字からなる慣用句を、故事成語(こじせいご)や故事成句(こじせいく)と言う。一部は和語に置き換えられて、ことわざに成っている場合がある。「推敲」や「矛盾」などは特に有名である。
圧巻
古代中国で行われた官吏登用試験である科挙で、もっとも成績の良かったものの答案(巻)を一番上に置いた。このことから、書物の中で一番優れた詩文を「圧巻」と呼ぶようになり、書物以外にも用いられるようになった。
井の中の蛙(井蛙の見)
井戸の中にいるヒキガエルは、自分が一番大きな生き物だと思っていた。しかし、それをウミガメが覗き込む。その体はヒキガエルより何倍も大きく、彼はヒキガエルに「こんな狭いところで何をしているのか?」と不思議そうに訊ねた。ヒキガエルはそれが聞き捨てならず、ウミガメにここの住み心地のよさを教え、彼を誘い込もうとするも、その井戸はウミガメには狭すぎて入れたものじゃない。そしてウミガメは自分が住んでいる海の広さを教え込むと、ヒキガエルは驚いた。
これはある儒者が、荘子の教えを聞いてからは自分の考えが世に通用しないのを憂い、友人に相談を持ちかけたところ、その才のある友人が窘めたたとえ話である。つまり、この男はその儒者に「まだまだ考え方が狭い。だから、もっと広い視野で学問を見よ」と暗示したのである。
このことから、見識が狭いこと、またそのような人を「井蛙」、「井蛙の見」などと呼ぶようになり、日本では「井の中の蛙、大海を知らず」という諺で知られるようになった。
臥薪嘗胆
楚の伍子胥は、楚の平王に父と兄を殺された。なので呉の闔閭に仕えることにした。伍子胥は孫武と協力して呉を富国強兵にしていった。が、越との闘いで、怪我を負い、志半ばで闔閭は死ぬ。闔閭の息子夫差が後を継ぎ、越王勾践に復讐を誓う。その気持ちを忘れないように、薪の上で寝た。伍子胥の協力で越を破った際、伍子胥の反対を受けながらも勾践を呉に仕えるという条件で、越の降伏を許してしまう。勾践は農民と共に質素な生活を送り、屈辱を忘れぬために、にがい胆を時々なめて報復を誓った。時はたち呉の国力が落ちた時に、勾践は呉を破り、呉王夫差を処刑する。「臥薪嘗胆」とは、復讐するために、長きに渡り苦労を重ねる事である。
画竜点睛・画竜点睛を欠く
梁の国の武帝は、仏教を厚く信仰しており、たくさんの寺を建てて、寺の装飾画は張という画家に描かせていた。張は都の安楽寺に4匹の龍を描いた。しかし、それらどの龍にも瞳が描かれておらず、聞くと張は、瞳を描く入れると龍が絵を飛び出ていってしまうという。人々はそれを信用せず、試してみるよう頼んだ。張は2匹の龍だけに瞳を描き入れた。すると、外では雷雲立ちこめ、雷鳴響き、雷で寺の壁が壊され、瞳を描き入れた2匹の龍が絵から飛びさっていった。人々は驚き、張の画力に感服した。残った瞳のない2匹の龍は今も安楽寺に描かれたままである。
このことから「画竜点睛」は最後の仕上げの重要さ、あるいはそれに値する物事を指す。(龍が絵から浮き出ることは、仕上げの重要さ、大きさをたとえたものと思われる)。普段は「画竜点睛を欠く」という形で最後の仕上げがない、最後の詰めを欠くという意味で広く使われる。睛は「ひとみ」という意味であり、「画竜点晴」は書き誤りである。
完璧
趙の藺相如が国宝の璧を携えて秦に赴き無事持ち帰った故事にちなむ。詳細は藺相如に記載。
杞憂
杞の国に、天地が崩れ堕ちて身の置き場が無くなるのではないかと夜も眠れぬほど心配した人がいた。このことから、無駄な心配、取り越し苦労のことを指して「杞憂」という。
疑心暗鬼を生ず
ある山里に住む木樵は自慢の斧を持っていた。だが、ある日、その斧を無くしてしまう。そんなとき彼はふと、この前の出来事を思い出した。隣の息子がその斧を見て自分も欲しいようなことを言っていた気がする。そこで、彼はその子供のことが気になり近寄ってみると、偶然にもその子供は急用を思い出したと言って逃げ出してしまった。彼はますます怪しくなり、何とか白状させてやりたいと思ったが、その時また何かを思い出してハッとする。実は、その斧は、荷物が多かったために自分で山中に置いてきたのである。そして、山中を探してみると案の定、斧はそのまま置き去りにされていたのであった。
これは列子に記載されている一種のたとえ話であり、このことから「自分が疑いの心を持つと、誰に対してでも疑わしく思えてしまうこと」という意味になった。また、この教訓を逆説的に捉えたものとして、「七遍温ねて人を疑え」(つまり、人を疑う前に自分の身元からよく探せという意味)という諺がある。
漁夫の利
2つの勢力が1つの事柄について争っている間に、第三者が利益を得てしまうこと。「鷸蚌(いつぼう)の争い」ともいう。鷸(しぎ)と蚌(はまぐり)が争いあい、両者とも漁師に捕まったという比喩が元になっている(出典:戦国策・燕策上)。
五十歩百歩
世は戦国時代、魏の恵王は、孟子に尋ねた。 「わたしは、常日頃から民百姓を大事にしているつもりだ。だが、他国の民が魏を慕って流入してきた様子がない。これはどういうことなのか?」 孟子は言った。 「まず、王に尋ねます。戦場で2人が怖くなって逃げ出しました。ある者は100歩逃げて踏みとどまり、ある者は50歩で踏みとどまったとします。そこで50歩逃げた者が、100歩逃げた者を臆病者と言って笑ったとします。王はどう思われますか。」 「それはおかしい。逃げたことには違いないではないか。」
「そのとおり」、と孟子は言う。そして魏王の政策も他国と比べて「五十歩百歩」なのだと指摘し、孟子の勧める王道を唱えていく。
つまり、大差のないこと。似たようなことわざに「どんぐりの背比べ」がある。
塞翁が馬
塞の国のある翁(老人)は、何よりも自分の馬をかわいがっていた。その馬は、周りからも評判が立つほどの駿馬であったが、ある日突然、蜂に刺された拍子に飛び出してしまう。一向に帰ってこない馬の様子に、周りからは翁に同情するほどであったが、翁は「これがきっかけで何かいいことが起こるかも知れない」とだけ言って、我慢強く待ち続けた。すると、どうだろうか。しばらくして、その馬が別の白い馬を連れ帰ってきたのである。しかも、その白馬も負けず劣らずの優駿であり、周りの者は口々に何と幸運なことかと囃し立てたが、翁は「これがきっかけで、別の悪いことが起こるかもしれない」と自分を戒め、決して喜ばなかった。
その予感は的中した。かわいがっていた孫がその白馬から落ちて、片足を挫いてしまったのである。周りはまた同じように慰めの言葉を掛けたが、翁はまた同様に「いいことの前兆かも知れない」と告げる。それからしばらくして、隣国との戦争が勃発した。若い男は皆、戦争に借り出され、そして戦死した。だが、孫は怪我していたため、徴兵されず命拾いした。そして、戦争も終わり、翁は孫たちと一緒に末永く幸せに暮らしたという。
このことから、人間、良いこともあれば悪いこともあるというたとえとなり、だから、あまり不幸にくよくよするな、とか幸せに浮かれるなという教訓として生かされる言葉になり、「人間(じんかん)万事塞翁が馬」などと使われる。類義句は「禍福は糾える縄の如し」。
折檻
前漢の成帝時代は王氏による腐敗政治に染まっていて、治安が乱れていた。中でも自らを学者と騙る張禹という男が政治に介入し、丞相の地位をいいことに日々贅の限りを尽くしていた。そんな状況を見かねた臣下の一人である朱雲はある日、意を決して成帝に「自分が国と帝の将来のため、張禹の首を刎ねる」と発言する。しかし、そのことが帝の逆鱗に触れ、彼は打ち首を命じられた。だが、彼は諫死を覚悟の上で盛んに進言を続け、必死に欄干にしがみついた挙げ句に折れてしまうほどだった。そんな状況を一部始終見通していた側近の辛慶忌はその朱雲の真意に心打たれ、彼が本当に国のことを思ってこのような無礼を蒙ったのだと、涙ながらに陛下に申し立て、同時に彼の罪を赦すよう歎願した。すると、辛のような大人にまでそのような態度を執られると、流石の成帝も改心、善政を尽くすよう決心し、同時に自への戒めとして折れた欄干をそのままにしておくよう部下に伝えたという。
以下の説話から、この話の元々の意味は「目上の人に対して、強く諫めること」であり、檻とは欄干、手すりのことである。しかし、後に派生して”厳しく叱る"という意味になり、今日では"体罰を交えて懲らしめること”という意味に捉えられるようになった。
先んずれば将ち、人を制す
四面楚歌
紀元前202年、4年間に及ぶ漢楚の戦いは終結しようとしていた。最初は楚の項羽が軍を優位に進めていたが、漢の劉邦が少しずつ形成を逆転し始め、ついに追い詰められた項羽は垓下(ガイカ)に砦を築き、立て篭もった。しかし劉邦の軍は砦を幾重にも取り囲んでいた。ある夜、砦の周囲、東西南北の四面から項羽の祖国の楚の歌が聞こえてきた。項羽は、敵の漢軍の中に降伏した楚の人がこんなにもいるのだと絶望し、最期を悟った。
これが「四面楚歌」の由来を指し、周りを敵に囲まれている状態や、孤立している状態に使われる。
守株
ある男が農作業に勤しんでいると、目の前を跳ねていたウサギが切り株に当たってそのまま死んだ。彼は喜んで、思わぬ獲物を家族に見せると、家族は「高く売れる」と皆声を揃えて喜んだ。すると、男は明日からは木を伐ってこつこつと稼ぐのはやめにして、ウサギを待って一攫千金を稼ぐことを策略する。そして、ありとあらゆる木を切り倒して、来る日も来る日もウサギが死ぬのを待ちわびた。ところが、そんな偶然など滅多に起こるはずもなく、いつしか男は周りの笑いものにされ、そして自分が耕していた田畑は荒れに荒れてしまい、以前にも増して貧乏になってしまったという。
このことから、物事はいつもうまく行くものではないという教訓からすなわち古いやり方ばかりで、進歩がない、または、偶然を当て込むような愚かなことをする、という意味となった。今日、日本では「株を守りて兎を待つ」という諺になっており、類義の諺に「柳の下の泥鰌」がある。また、『待ちぼうけ』という童謡は、この故事をモチーフにしたものである。
助長
宋の国の男が、自分で植えた苗の成長が遅いので心配になって、毎日畑へ通い世話を続けたが、一向に成長する気配がない。そこで男は苗の成長を助けてあげようと、一つずつ苗の先を上に引っ張った。疲れて家に帰った男はそのことを家族に話した。それを聞いた息子があわてて家を飛び出し、畑へ向かうと、やはり苗の根が土から浮き、弱って枯れてしまっていた。
このことから「助長」は、物事を助けようとして、余計に害を与えてしまうこと、という意味に使われるようになったが、今日では単に「第三者が物事を助けること」という意味でも使われる。
推敲
唐の都長安に、科挙(官吏の登用試験)を受けるためにはるばるやってきた賈島は、乗っているロバの上で詩を作っていた。その途中、「僧は推す月下の門」という一句を口ずさんでから、「推す」のほかに「敲く」という語を思いついて迷ってしまった。彼は手綱をとるのも忘れ、手で門を押すまねをしたり、叩くまねをしたりしたが、なかなか決まらなかった。あまりにも夢中になっていたので、向こうから役人の行列がやってきたのにも気づかず、その中に突っ込んでしまった。さらに悪いことに、その行列は長安都知事、韓愈の行列であったため、その男はすぐに捕らえられ、韓愈の前に連れて行かれた。そこで彼は事の経緯をつぶさに申し立てた。優れた名文家であり、詩人でもあった韓愈は、賈島の話を聞き終わると、「それは『敲く』の方がいいだろう」と言った。そして、二人は、馬を並べていきながら詩を論じ合った。
このことから「文章を書いた後、字句を良くするために何回も読んで練り直すこと」を「推敲」という。
漱石枕流
孫楚という男は、ある日友人に相談を持ちかけた。自分は役人であるが、俗世間の煩わしさにほとほとうんざりしており、竹林の七賢のような、俗世間を離れた暮らしをしたいと持ちかけ、思わず「石に漱ぎ、流れに枕す」ような暮らしをしたいと告げた。すると友人が笑って、「それを言うなら、石に枕し、流れに漱ぐ(すなわち、枕を石にして、水の流れで口を漱ぐような自然と一体になった暮らしをすること)じゃないか」と突っ込まれる。すると、学問にプライドを持っていた男は思わず、「いや、それで間違っていない。石に漱ぎとは石で歯を磨いて、流れに枕するとは、俗世間の煩わしさも含め、全て水で洗い流すことだ」と言い張った。
そこから、常に意地っ張りなことを漱石枕流、「石に漱ぎ、流れに枕する」というようになった。明治時代の作家、夏目漱石の名前もこの故事に因むといわれている。
蛇足
ある村の祭りで、長が貴重な酒を貰った。だが、公平に分けたら分け前が少なく、物足りない。そこで、ある男が「今から蛇を描いて、一番早く描き上げた者が飲むことにしよう」と画策する。 実は、この男は絵が得意で、初めから自分が全部せしめる魂胆があった。そして、他の者たちもそれに納得して絵描きの勝負は始まった。男は器用にさらさらと描き終え、得意になって足まで描く余裕があるとばかり、足まで付け足してしまう。
しかし、その間に別の男が描き終え、そして賞品の酒を飲み干してしまった。始めの男は文句を言うが、後から酒を取った男は「お前の描いた生き物は足があるから蛇ではない」と尤もな意見を告げ、得意になっていた男を落胆させてしまった。
このことから「蛇足」とは、わざわざ余計なことまでしてしまうたとえとなった。また、物事が巧くいっているときに、調子に乗ってどんどん手を出すべきではないという教訓にもなっている。
朝三暮四
非常に猿と戯れるのが好きな男がいた。この男は家族のことも放っておいて、猿を可愛がるものだから、餌の時間になるといつも猿が寄ってくる。ところが、それが原因である日、奥さんに「猿の餌を減らしてくれないと、子供たちの食べる物までなくなってしまう」と窘められてしまう。困った男は何とか猿たちを籠絡しようとし、一斉に呼びかけた。これからは「朝には木の実を四つ、暮(ばん)には三つしかやれない」と告げるも、猿たちは皆不満顔。それならば「朝は三つ、暮は四つならどうだ」と言うと、何と猿は皆、納得してしまったのである。
そこから「朝三暮四」は、人を巧みに言いくるめて騙すこと、また猿の立場から、物事の根本的な違いに気付かない愚かな人を指す言葉となった。
借虎威(虎の威を借る狐)
虎は多くの動物を求めてそれを食べる。ある時、狐を捕まえた。狐は「君は私を食べてはならない。天は私を百獣の王にしたのだ。私を食べればそれは天の命令に背くということだ。もし信じないのなら私は君の前を歩いてみよう。多くの動物は私を見て逃げないであるだろうか」といった。虎は納得してそのまま狐について行った。獣はその姿をみて逃げ出した。虎は自分を恐れて逃げているとは思わず狐を恐れて皆逃げているのだと思った。
このことから「虎の威を借る狐」は、大したこともない者が、権力者などの威光をかさに来て威張ることを指すようになった。
背水の陣
楚漢戦争時に、漢の劉邦に仕えていた韓信は兵力20万人の趙を約3万の兵で攻略しなければならないという難局に臨んだ。韓信は少ない兵力で勝つために、一般的な戦術の定石を敢えて無視し、軍団を逃げ場の無い川(死地)の前に布陣した。兵は逃げ場が無いことで決死の覚悟で奮戦し勝利を得た。このことから自らを窮地において、最大限に力を発揮する事を「背水の陣」と言うようになった。
矛盾
楚の国に、矛と盾を売るものがいた。その人は矛について「この矛はどんなに堅固な盾も突き通すことができる」といい、また盾については「この盾はどんなに鋭い矛でも突き通すことはできない」と売り口上を述べていた。そこでそれを聞いた客が「では、その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と聞き、売っていた人は返答に困ってしまった。
このことから「物事のつじつまが合わないこと」を「矛盾」という(詳しい説明は矛盾を参照のこと)。
蛍雪の功
一途に学問に励む事を褒め称える中国の故事。以下の伝承を由来としている。
東晋の時代の車胤は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。
同様に、同じ頃の孫康は、夜には窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強していた。
そして、この二人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している。
梁上の君子
他山の石
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